家庭料理にみる音楽家の顧客満足度(?)
最近行っているオフィスの前に随分と古びれた蕎麦屋がある。お昼時、外に出たらそこの店主が立って手招きをしている。まぁ、ランチタイムの客の呼び込みといったところか? ちょっと場所が悪い店なので、そうでもしないと人が来ないのだろう。
特に行くアテもなかったので、友人達と店に入った。中には蕎麦屋らしからぬ「ニラ玉」とか「田舎ご飯」とか、いわゆる家庭料理っぽいメニューが並んでいる。
店の汚さはさておき、出てきたものを見て皆なにも言わないが、???な雰囲気。マズイとかではないのだが、見た目・味ともにあまりに家庭的。忙しい母親がパッパと作って皿にポンと乗せただけみたいな定食なのだ。これが飛びっきり美味いとか安いというのなら話は変わるのだが、近くのまともな店と変わらない値段。
店を出て、一緒に行った人が“ここはもうないな(来ることはないな)!”と言ったのがすべてを表している。
俺は頷きながら、頭の中で色々と考えていた。「家庭料理」をウリにしている店はたくさんある。でも「家庭料理」を店に食べに行って、本当に家庭料理みたいなものが出てきたらきっと誰も満足しない(もちろん、敢えてそれをウリにしている料理自慢の店は除く)。その瞬間、「料理:料理人=音楽:ミュージシャン」だよなぁ...と頭をよぎった。
結局はミュージシャンも含め、あらゆる職業の評価基準って顧客満足度なんだよな。一部の天才系あるいは資産家芸術家はそんなもん関係ないんだろうけど。
雅楽なんてものは、初めから高貴な門構えの店だ。そこで豪華そうな器に見たこともないような食材が恭しく乗せられてくる。よほどマズくない限り、食べた人は神妙に食し、“これが本当に美味い料理というものか...”と思う。例え味付けがおかしくても、知らないと「こういうもんなんだ」と納得する。少し口に合う味付けだったりすると「さすがに美味い!」などと過大評価に陥る。
料理人に取って、これは楽な話なのか、やり甲斐のない話なのか? “プロとは何か?”などという陳腐な話題にすり替えるつもりはないが、こういう味を知らない客人のお陰で“プロ”を名乗れる演奏家はゴマンと居る。いや、俺もその範疇かも知れない...
大して実力はないのに仕事いっぱいのミュージシャン、玄人筋でも驚かれるほど実力があるのにまったく仕事の来ないミュージシャン。もちろん仕事の量や稼ぎでそのミュージシャンの音楽性や芸術性を測ることはできないけど、それを生業とする以上、顧客満足度の高さは必須なんだと思う。
こちらの世界では顧客満足度を弟子筋に絡む人達だけの恣意的な統計で測っている『先生』も多いけどねぇ。いや、その方が大多数か??
何度もこのブログに書いてるけど、俺は理由あって雅楽という世界に関与したけど、元から志向はポピュラー音楽。やっぱ見ず知らずの客人に対する満足度の高い音楽を作りたい...と思う反面、そんなもん気にしないで音楽を作る!という相反する思考の葛藤が果てなく続くのである。
この記事へのコメントは終了しました。
コメント