GW、珍しく実家(大阪)に帰省。いつもは日がなノホホンと過ごすだけなんだけど、今回は前々から気になっていた...というか“行かなきゃ!”と思っていた所にブラブラと…
うちの実家、阪急電車の所要時間ベースで考えると京都と須磨の中間に位置している。京都も須磨も平安後期あたりの物語に良く出てくる場所。
そこで『師長(もろなが)』さん。このキーワードにピン!ときた人は雅楽、それも糸もの(琵琶・箏)に興味がある人でしょうな 
えーっと、楽琵琶(雅楽琵琶)の話を超々大雑把に...
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正倉院の宝物なんかは別として、楽琵琶の“演奏”という意味での実質的な歴史というか話題の始まり。それは第17次遣唐使船の准判官だった藤原貞敏(さだとし)[807-867]が長安で琵琶を学び、839 年に「青山」「玄象」という超名器、「流泉」「啄木」「楊真操」という3大秘曲を持ち帰ったところから始まります。貞敏は琵琶の名手であることは勿論なんだけど、彼自身よりも、持ち帰った琵琶銘器の伝承や秘曲の伝授に関する様々な記録・物語・説話が残ってます。雅楽だけではなく、能や平曲(平家琵琶)の演目としても取り上げられてます。(※持ち帰るはずだった琵琶には、この他にも「獅々丸」という琵琶もあったそうですが、帰航時の荒波を鎮めるために海に沈めたという話があります。)
詳しくはすっ飛ばしますが、貞敏の没後、いろいろな音楽が日本化していく中で、楽琵琶にも流派(西流・桂流)ができたり(=派閥争いが起こる)と少々混乱の様相を見せます...
そして、しばらくの時を経た1150年前後にこれらを統合・集成すべく登場する人物が藤原師長(もろなが)[1138-1192]。あの源博雅[918-980]と並ぶ、雅楽における2大巨匠の1人。政治家としても従一位・太政大臣にまでのぼりつめ、かなり波乱の人生を送っています。この師長さん、現在でも雅楽研究者が第一級の参考資料として用いる楽琵琶の楽書「三五要録」、楽箏の楽書「仁智要録」の著者でもあります。この2冊が現存していなかったら、当時の音楽の学術的な研究は進まなかったと思われるほど当時の音楽・楽理を詳細多岐に渡って集大成した楽書なのです。
今回、ブラブラしてきたのは主にこの師長さんにまつわる場所です。まぁ、こういう史跡は実話とはかけ離れた???なのも多いけどね 
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まずは京都御所近く。京都御苑の中にある「白雲神社」。ここの御祭神は妙音弁財天坐像(重文指定)。弁才天像は8臂像と2臂像があるけど、ここにあるのは日本最古の2臂像とされていて琵琶を持ってます。ちなみに良く見かける女性の姿ではなく、曼荼羅に描かれている菩薩が琵琶を持ってる姿。この妙音弁財天坐像は藤原師長が信仰していたものだと言われています。
ずずずぃ~っと大移動。山陽電鉄須磨駅の近くにある「村上帝社」。村上天皇[926-967]を祀っている社だけど、実はこの社の主役は藤原師長。能がわかる人には「絃上(観世流では“玄象”)」の舞台と言えば早いかな? 師長さんが音楽の勉強をしに渡唐しようとして都を出て須磨に来た時、村上天皇の霊が現れて引き留める。その代わりに、かつて貞敏が海中に沈めたとされる琵琶の名器「獅々丸」を与えたという話。その場所がココ。
こちらは「琵琶塚」。村上天皇の霊に説得された師長さんが入唐を思いとどまり、貰った「獅々丸」を埋めたとされる場所。本当は「村上帝社」の境内にあったのだが、真ん中を山陽電鉄が突っ切ったために現在は線路越しに二分されている。しかし、せっかく「獅々丸」を貰ったのに埋めるなんて有り得ないだろ?...と考えるのは俺が俗人であるが故か?
お隣の須磨寺駅の真横にある「平重衡とらわれの遺跡(松)」。駅横のビルの横にひっそりと、いや、見捨てられたように置いてある。平重衡(しげひら)[1157-1186]、これまた琵琶の名手。平氏の武将・大将でもある。奈良の東大寺大仏を焼亡させた張本人。この人が都落ちして源氏に捕えられた場所...らしい。数年前、この平重衡役として楽琵琶を演奏してほしいという話が来て(スケジュールの都合で流れたが)、それ以来、妙に気になる人なのです。ちなみにこの人、大仏なんか焼いちゃうから、南都(奈良)の人達からは嫌われてます?! あ、考えたら、平重衡役の話を持ってきたのって奈良出身の人じゃん!
少し神戸側に移動して、こちらも琵琶塚。デカイ! 神戸市兵庫区の清盛塚(平清盛の慰霊塔)の横にあります。清盛塚も琵琶塚も区画整理のため本来あった場所からは少し移動している。
平経正(つねまさ)[????-1184]。武将ではあるが楽才を認められ、名器「青山」を下賜された琵琶の名手として名高い人物。この人が都落ちして琵琶を守るためにここに埋めたとされるが、これはかなり怪しい逸話。
この経正の話も能の「経正(経政)」や平曲の「経正都落」という演目に残っている。どちらも源平の戦で琵琶が焼失してはいけないと京都の仁和寺に返上する話になっている。埋めてしまうよりは返上するこちらの話の方が、武将として潔い妥当な判断だと思う。
...とまぁ、『藤原師長』をキーワードに周辺をウロついてみました。もちろん行ったのはここに載せた所だけじゃないけどね
実家に住んでいたころはとんでもなく遠い場所だったけど、目的地まで平気で1時間オーバーな東京に住んでいると近いもんだなぁ?!
そうそう、師長と言えば名古屋の嶋川稲荷。尾張配流時代の師長の屋敷跡があります。さすがに名古屋までは行けんかった。つーか、去年、熱田神宮に行ったのに、近所やんか! 
番外編
白雲神社にあった琵琶の絵馬
JR須磨駅を出たところにあるデンマーク人の人がやってるホットドッグ屋さんがある。そこにあった“須磨水ぷくぷくソーダ”。三ツ矢サイダーとラムネの中間っぽい味かな?
「平重衡とらわれの遺跡」の全景。いつも思うけど。大阪とか神戸って、関東に比べて景観に対する感覚が節操ない。こういうとこに看板を置くのは考えて欲しいなぁ...
清盛塚の周りの歩道にあった琵琶タイル。4絃の琵琶なのに転手(ペグ)が5絃の筑前琵琶っぽい。マニアックだが、こういうのって腹が立つ
ちゃんと調べて書け
ちなみにですが、京都でよく売っているお土産用の雅楽人形。今まで見た中で正しい姿だったのは1つもありません。どっかおかしいです...
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